陶表現を追い求めて 望月集・鈴木徹展
(日本橋三越本店本館6階 美術特選画廊 11月1日~7日)
個と個のぶつかり合いは、時に新たな発見を生む。日本橋三越で開催された二人展「望月集・鈴木徹展」(写真1)は、二人の陶芸家の良いところをお互いが引きしていて、この時期に共演できたことに大きな意味があったように感じた。
望月集(もちづき・しゆう 1960年生まれ)は、主に赤絵で植物文様を描いて作品を彩る。何年前だったか、公募展で受賞した作品を観たときから、望月が描く赤による文様が変化してきたように感じていた。その後、公募展やグループ展で作品を観るたびに、少しずつ方向性が定まってきた。そして今回の二人展である。実質的に個展に近い作品のラインナップと充実ぶりはしっかりと望月の作品の魅力を伝えていた。
会場を観て、メインとなる作品がいくつもある、と感じた。それだけ力がこもっていた。赤絵は主題となるモチーフによって描き方があるように思えたが、その選択も描かれたモチーフを見ていると、望月の技量の深さとして伝わってきた。一枚の絵を見ているような印象の《花文角皿「梅」》(写真2) は、梅が紅白になるように赤色のベースが上手く生かされていた。銹色の扱いも効いており、絶妙のコントラストをつくり出していた。角皿という選択は問違っていないだろうが、別の器形でも見てみたいと思わせた。
今回、椿の描き方に、とくに望月らしさのようなものが感じられた。椿は多くの作家が手掛けるモチーフである。そこに敢えて挑んでいく勇気は自信のあらわれであろう。その一つ、《花文皿「椿」》(写真3)は、これまで望月が長く描き込んできたからこその見せ方と見た。椿のフォルムの整理と普遍的な捉え方のバランスに独自性があり、これまでにあるようでなかった椿の姿が見られた。ややピンク色をした素地や貴人に入り込んだわずかな色までもが、モチーフを飾り立てているようで、印象的であった。この事のタイプの作品は会場にいくつかあり、まさに定番として長くつくり続けられる作品だと思えた。
銹色をベースとした《牡丹図大鉢》(写真4)は、ベースの色を変えた展開として、なるほどと思わせた。モチーフの選択や構成もよく、これまでに培った感覚が上手く働いたかのようである。
フォルムという点で、《花文大鉢「梅」》(写真5)のような、ゆったりとしたアウトラインも持ちながら、キリッと口綾部を締めた器形のバランスがよかった。が、細かなことを言えば、もう少しアウトラインに気を使うことで、より美しいラインが描けたはずである。こういった詰めの部分が、今後の作品制作に重要となろう。それは《花文角皿「梅」》(写真6) のような角皿でもいえることで、単純に四角なのか、あるいは、わずかな変化を盛り込むのか、というような微妙なコントロールが作品のクオリティーをあげることになるだろう。もっともっと高みを目指して欲しいのである。
もう一人、鈴木徹(すずき・てつ 1964年生まれ)は、緑袖による作品展開で知られる。『陶説』の誌面でもたびたび登場しているが、また、新しい展開を見せていた。
今回は素材との出合いとフォルムの新しさである。《灰粕茶碗》(写真7)は、新しい土の発見から生まれた。陶芸家にとっての新しい素材は、意欲と可能性を引き出すが、この茶碗はその具現化の第一歩といえよう。ただ今回は、土の特性を引き出す段階で終わっているように思われるため、次回以降では、鈴木自身のフォルムの追求を、是非、見てみたい。ところで、定番となっている《緑粕皿》(写真8)にもその土が使われており、土からにじみ出て見込みに溜まった薄青色の色合いが印象的であった。
フォルムという点では、横に長く伸びて奥行きの浅い《萌生》(写真9)や以前の(森羅)シリーズを彷彿とさせつつフォルムに動きを持たせた《萌生》(写真10)が今回の一押しとなろう。実はこれらの作品の表面にも土からにじみ出た色があり、土との出合いの痕跡が見られる。炎の力にとって物質を変容させるやきものの奥深さを改めて感じることとなった。
力のある二人が同じ会場で作品を展示することで、作品の構成や内容の吟味がしっかりと行われ、互いの力が引き出された感がある。結果論ではあるが、それが素材の扱いに始まり作品展開までの充実した内容に繋がったのである。二人のますますの活躍を期待したい。
(唐澤昌宏・東京国立近代美術館工芸課長) |
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