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 取材掲載記事



『陶工房 59号』 (2010年)  発行:誠文堂新光社






斬新なる絵付け

東京芸術大学に入学した望月集氏は、
形と絵の両方をクリエイティブできる陶芸の道を選び、
東京・中野の実家を改造して工房にした。
「蓮図長角皿」で、今年の伝統工芸陶芸部会展日本工芸会賞を受賞。
土ものに具象的な絵付けが久々に脚光を浴び、
画期的な受賞となった。
絵付けの新境地を切り拓いた試行錯誤の道のりを取材した。



自己責任の陶芸を選ぶ

 もうじき50歳を迎える望月集氏は、小学生のころから杉並区方南町に住み、育った。父親
は8年前に定年退官するまで、東京整大で教鞭をとっていたデザイナー。若いころは、デザイ
ン事務所を構え、大手企業の栄養ドリンクや調味料容器のデザインなどを手掛けていた。
 そんな父親に影響を受けた望月氏はデザイナーを目指したが、企業の制約が強いデザインの仕事は自分に合わないのではないかと思うようになった。そんなとき、漆芸家・松田権六の
『うるしの話』 を読み、自己責任は大きいが個人のリズムで仕事ができる工芸家の道を選択。東京藝大では、陶芸を専攻した。

赤絵を好む

「もともと粘土に触るのが好きで、絵も描けるし、火遊びもできる (笑い)。これが仕事にな
るのだから面白い!」
 当時の藝大の陶芸教授は、望月氏が同大学の講師となった86年に重要無形文化財保持者に認定された藤本能道と田村耕一、「食と器」 の大家・浅野陽の個性豊かな三氏。そのなかでも望月氏は、浅野教授の器に対する造詣の深さ、技法の豊かや作品の自由さに惹かれた。
「浅野先生の土や釉の準備、釉掛けや窯焚きなどをとおして、多くの経験をさせていただきました。先生の手伝いで、何日も徹夜になることもありましたが、自分の制作をおろそかにしてはいけないと注意もされ、相当鍛えられました。
 先生の足柄の離れに時々泊まらせていただき、そこを拠点にスケッチをしました。ときには
ご一緒に富士山や信州まで足を伸ばすこともあり、陶芸を越えた刺激を受けました。」
 望月氏の赤絵は、そんな浅野教授の影響が大きい。赤絵は絵付けの代表的なものだが、浅野教授の赤絵はより明るい発色が特徴だ。望月氏は、そうした赤絵の表現を進化させていった。

赤絵と長石釉を組み合わせる

 赤絵具は、白く焼き上げたものの上に塗ると明るくきれいに発色する。望月氏も初めのうちは、白土や白化粧の上に絵付けし、透明釉を掛けて焼いていた。しかし赤絵具は、ベンガラを主原料にしているため、焼き上がりの肌合いが艶消しになる。つまり、赤絵と土灰系や石灰系の艶のある透明釉では、肌合いがしっくりこない。透明釉に代わる白マット釉をいくつか試してみたが、満足できなかった。
 そんなある日、望月氏は釉の質感がしっとりとしている志野の水指に百貨店で出会う。じつくりと見て、この白い釉肌の上だったら赤絵の色がよりきれいになると判断。それから、美濃土や釉の原料を取り扱っている土岐の業者と相談しながら、土や釉の調合、焼き方などの試行錯誤が始まった。
「ときに、自分の表現を優先することばかり言ってしまい、東京者は何を考えているか分からないな、と言われたりしながら・・・(笑)」
 望月氏は、難の柔らかい白い釉を求め、他の産地の原料もどんどん試した。その結果現在は、目的に応じて数種類の土を使い分け、その上に長石釉を掛ける。長石は平津とドイツの二種類で、それに少量の朝鮮カオリンが加わる。長石釉は、特有のピンホールが生じるが、望月氏はそのまま作品に生かす。その他、制作途中に発見し、今は望月陶器の十八番(おはこ)となった陶技や丹念な制作法は、工程図版とともに記載した。

 取材を通じ、自分の陶芸を始めた頃の様子を思い出し、懐かしい気持ちになりました。思えば、なんと贅沢な先生方のもと勉強してきたのかと今更ながら実感し、そんな恵まれた環境で育ったことに感謝し、少しでも恩返しといいますか・・・魅力的なものを生み出せるよう切磋琢磨し続けなければと改めて思っているところです。




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