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取材掲載記事 



『日本料理』 (1995年)  発行:日本料理研究会



 

(本文)

 自ら体験した感動の世界を、器の形を借りて再現するのだと望月さんはいう。好んで富士山やススキの紋様を描くのは、富士の裾野を訪れたおり、逆光の中で金色に燃えて波打つススキの美しさに強く打たれたからだ。長石釉を施した作品は志野をおもわせるが、そのモダーンな造形感覚は志野にはみられないものであった。

富士にススキの紋様
 
東京は中野区の住宅街の一角に、望月集さんのアトリエがある。広さ、十二坪ばかり。入口を入った左側に電動ろくろが三基置かれ、奥に電気窯が二基据えられている。
 ろくろ場のかたわらの板敷きの上に、素焼きの大きな盛り鉢や花入れが置かれていた。三越デパートで開く個展用の作品だという。それら素焼きの作品にはやがて白い長石釉が掛けられ、望月さんが好んで描く富士山やススキ、ハス、梅などの紋様が施されていくはずである。その大胆なタッチの紋様は、抑えた色調の中にも鮮やかさをもって描かれていくにちがいない。そして、その大胆さと繊細さが織りなす望月さんの作品群は、見る人の心を和ませずにおかぬことであろう。
 望月さんは昭和五十六年、芸大大学院工芸科陶芸専攻を修了後、同大学陶芸研究室非常勤講師を勤めていたが、自由な制作時間を持ちたいと昨年四月に職を辞した。
 非常勤講師として母校に勤めたその八年間に、人間国宝の故田村耕一、藤本能道、そして食器作りで著名な浅野陽氏など、錚々たる芸大教授の薫陶を受けた。それは望月さんにとって恵まれた修業期間でもあった。
 「三人の先生方はすごく刺激的で、それぞれに多くの勉強をさせていただきましたが、特に浅野先生の食器に対する考え方に感動しました。単なる美とか形式にとらわれることなく、使える食器を追求していくという姿勢に大きな影響を受け、私も食器をやるようになりました」

感動を器に託して
 
望月さんは高校時代には考古学者を夢み、芸大工芸科に入学した当時は、漆の黒い艶やかな肌に魅せられて漆芸家に憧れた。しかし、三年の専攻課程に進むとき陶芸専攻に切り換えた。
 「最初の二年間で漆はぼくの性に合わないことがわかりました。そのうち、陶芸をやっている先輩の家に遊びに行っている間に、陶芸が自分のリズムにすごく合っている気がして、陶芸を専攻することにしたのです」
 学生時代も、講師になってからも、望月さんは芸術性のみを追求して作陶に励んだ。それが陶芸というものだと信じていたが、しかし「これだ!」という作品は生まれなかった。ところが二、三年前から、自分が作りたいものを作ればそれでよいのだ、と考えるようになった。
 富士のふもとを訪れたとき、逆光の中のススキが金色に波打っている景色に望月さんは感動した。その感動を器に描いてみたいと思った。また、ぽってりとしたハスの花の美しさにうたれ、その感動を器の形を借りて演出してみたいとも思った。そんな気分を大切にして食器を作ってみる―、そう考えるようになってから望月さんは自在にろくろが挽けるようになったといい、食器作りが楽しくなったともいう。
 「食器は美術館でガラス越しに見るようなものじゃありませんものね。実際に盛って食べてみる。そうしたことによって面白さや楽しさが出てくる、それが器だと思っています」
 空の器を展示するのではなく、実際に料理を盛り付けて展示する。料理人と合同でそういう個展を一度やってみたいというのが、今日この頃の望月さんの夢である。
 伝統工芸新作展、クラフトデザイン展、日本伝統工芸展などに入選。銀座ギャラリーおかりや、日本橋三越本店などで個展。陶芸工房「一閑」を主宰するかたわら、朝日カルチャーセンター講師、岩手大学と埼玉大学の非常勤講師を勤める。

 当時、料理と器の展覧会をやってみたくて、この取材に見えた記者の方に、「展覧会の企画に付き合ってくれる料理人どなたかいませんかねぇ」と伺ったところ、「いませんねぇ」と、あっさり返事。  この数年後、フランス料理の瑞玉さんで、このような企画が実現しました。

 


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